『小春日和』

side:佐倉小春

恋って、なんだろう?

その人のことを、ずーっと目で追ってしまったり。
近くにいたら、胸がドキドキしたり。
夜寝る前にその人のことを思い出して、心が温かくなったり。
上手く目を見て、話せなかったり。

それは、お泊まり教室の夜、誰かが言っていた言葉。
けれど、それが恋なんだとしたら、そうなんだとしたら、私は……。

『小春日和』

「小春、今日も花壇の水やり?」
「う、うん。
長くなりそうだから、友ちゃんは先に帰って大丈夫だよ。」
帰りの会を終え、ピンクのランドセルに教科書と筆箱を詰めていく。小学校に上がる頃、お母さんに「赤でいいでしょ」と言われながらも、わんわん泣いて、おねだりして買ってもらったものだ。小学4年生の今となっては、そのはっきりとした濃いピンク色は、ちょっとだけ、恥ずかしいような気もする。
「水やりなんて、ほんとは小春の仕事じゃないのに」と唇をとがらせた友ちゃんに、あはは…と曖昧な笑みで返事を返す。
友ちゃんの言う通り、花壇の水やりは本当は自分の仕事ではないけれど、男の子達が「なんとなく暇そうだから」なんて理由で係になったのを知ってるから、自分が代わりに面倒を見ている。お花が枯れてしまったところで気にするのは先生くらいだけど、私はやっぱり綺麗なお花が好きだから、元気に咲いていてほしい。
「私も、ピアノが無かったら付き合うんだけど…。まぁでも、昇降口までは一緒でしょ。焦んなくていいから一緒に行こ」
優しい笑みで語りかけてくれる、綺麗なストレートの黒髪を肩の下まで伸ばした少女、友ちゃん…朝倉友梨香とは、入学式で知り合った。ドジでおっちょこちょいで、何かと迷惑をかけてしまう私にもいつも優しくしてくれる。
私はうん、と勢い良く頷くと、今詰め終わったばかりのランドセルを背負って、少し先に歩き始めた友ちゃんに追いつくように、早足で駆け出した。

***

「…小春、好きな人、いる?」
いつものように昇降口で自分の下駄箱に手をかけると、友ちゃんも自分の下駄箱に手をかけ、彼女は視線をそちらにやったまま、口を開いた。
「えっ!?」
思わず今しまおうとした上履きを床に落とすと、慌てた友ちゃんが「ごめんごめん」と拾ってくれる。
「小春からあんまりそういう話聞かないから、ちょっと気になって」
「う、ううん、ちょっとびっくりしただけだから、大丈夫だよ」
確かに、女子のみんなで集まる時はそういう話で盛り上がることもある。けれど、引っ込み思案でいつも聞き役の私は、みんなの話をドキドキしながら聞いているだけだった。友ちゃんと2人で遊ぶような時も、友ちゃんが男の子に興味を持ってるように思えないっていうのもあるけれど、あまり、そういう話…自分の恋の話、を、ちゃんとしたことはなかった。
「…よ、よく、わかんない、んだ…。」
目をそらしながらはは…なんて誤魔化すようにはにかむと、友ちゃんは私の顔をじっと見て、1つ小さくため息をついた後、いつものお姉さんみたいな笑顔で、そっか、とだけ呟き、自分の下駄箱からグレーのスニーカーを取り出した。
「小春が言いたくなったらでいいよ」
友ちゃんは履いたスニーカーをトントン、と二回鳴らし、男の子みたいな黒いランドセルを背負い直すと、手を振りながら、また明日、と去って行った。

…友ちゃんは、気付いてた。
私が、恥ずかしくて、言い出せないこと。
…気になってる男の子が、いること。
「……はぁ」
心の中で友ちゃんごめんねっ…と呟きながら、まだ下校中の生徒で賑わう昇降口を出て、テラスの先にあるジョウロ置き場に向かった。

***

ーー日下…日下翔太くん。
他の男子たちより少し大人びた印象の、クラスメイトの男の子。
学区はおんなじだけど、幼稚園は違ったから、小学校になって、初めて彼の存在を知った。一年生の頃からずっと同じクラスだけど、話したことは、実は、あんまりない。
というより、話しかけられても、心臓のあたりがドキドキして、頭が真っ白になって、なんだか言葉が詰まって、出てこないのだ。
あれは、小学2年生の時。今日と同じ、暖かく晴れた冬の初めだったと思う。授業で「隣の人とペアになって問題の答えを考えましょう」と先生に言われて、日下くんと組むことになった時がある。机をぴったりくっつけて、いつもよりも少しだけ近い距離に、もうそれだけで私は恥ずかしくて、その場から逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。そんな私とは裏腹に、日下くんはやっぱり涼しい顔で「よろしく、佐倉」なんて、今よりも少しだけ幼い声で冷静に話しかけるから、ああ、こんな気持ちなの私だけなんだ、って余計に恥ずかしくなって、日下くんの顔もまっすぐ見れなくて、いっぱいいっぱいになった私は、その場で泣き出してしまった。
日下くんが先生に後で職員室に来なさい、と怒られてるのを見て、違うんだよ、日下くんは悪くないよ、と言いたかったけど、嗚咽に紛れてうまく言葉にならなかった。そのあと、職員室からやっぱりなんでもないみたいな顔で出てきた日下くんに何度もごめんねと謝ったけど、「別に気にしてない」と一言だけ言われて、それがまた余計に自分が惨めに感じて、それからなんとなくまた話しかけづらくて、今に至る…。

「…はぁ」
水のたっぷり入ったジョウロを両手で持ちながら、余計なことを思い出して暗くなっていると、いつもと違う花壇の様子が目に入る。花壇の前に誰か…

あれ、日下、くん…?

見覚えのある明るい茶色の髪と赤いTシャツ。
整った横顔とまっすぐな瞳。
間違いない、さっきまで自分が頭に思い描いていた少年だ。
ど、どうしよう。ただでさえ彼を前にすると慌てふためいてしまうのに、さっきまで考えていたことで余計にしどろもどろになってしまう。
でも、なぜ係でもない日下くんが放課後の花壇なんかに用事があるのだろう…?見ると、日下くんは花壇に向かって何か真剣な顔で、小さく口を動かしている用だった。花壇の向こうに誰かいるのだろうか…?
そんなことを考えていると、「佐倉?」と深いブルーの瞳がこちらを向いた。思わず「ひゃ、ひゃい!」と盛大に返事を噛む。持っていたじょうろが左右に揺れ、水がぱしゃぱしゃと漏れる。駆け寄ろうとした日下くんに「だ、大丈夫!」と精一杯の大声で叫ぶと彼のいるところまでよたよたと近づいた。

***

「な…なにこれぇ」
昨日まで赤や黄色の色とりどりの花が咲いていた花壇は、花こそ倒れてはいるが無事なものの、土から掘り起こされ、まるで台風か何かが来た後かのようにめちゃくちゃになっていた。
「ごめん」
「へっ!?あっ違くて、その、日下くんがやったんじゃないのはもう聞いたからっ…」
「…それでも、ごめん。俺、今直すから」
「あっ!待って日下くん、手っその、あのっ、スコップ!今スコップとか取ってくるからっ!」
花壇の前に着いた私に頭を下げた日下くんは、開口一番「ごめん」と言った。そして花壇が荒らされてしまったこと。それをやったのは日下くんの友達だということ。でも、イタズラ好きなだけで根は悪い奴じゃないということ。ばつが悪くて出てこれない友達の代わりに、自分が元通りにするから許してやってほしいということ…を、いつもと変わらない表情で、少しだけ申し訳なさそうに告げた。私はというと、こんなに一気に喋る日下くんは始めて見たので、びっくりして「あ、」とか「う、」とかそんな言葉しか発せなくて、花たちの無残な姿を見て、ようやく言葉らしい言葉を発することが出来たのだった。
じょうろや肥料の置いてある棚から取ってきたスコップと軍手を手渡すと、日下くんは「助かる」といって作業に取り掛かった。
それからは、黙々と作業が続いた。
正直、ま、間が持たない…。
何か話さないと…!でもいったい何を?なんて一人でぐるぐると考えていると、日下くんが「佐倉だったんだな」とぽつりと呟いた。
な、なにが?と振り向くと、「小林達がサボってるから、誰が世話してんのかと思ってた。」と言うので、思わず目を丸くする。
私と先生以外に花壇を気にする人間がいたんだ…!
勝手に1人で感動していると、「でも」と日下くんが言葉を続けた。
「正直、世話してるのが佐倉だって気付いて、許してもらえるか不安だった。」
「え!?」
不意を突いた言葉に思わず思考と手が止まる。
ど、どういうこと?
も、もしかして私、そんなに怖い奴だと思われてる!?な、なんで~~~!?
必死に思い当たる節がないか考えるけど、ショックの方が大きくて頭が真っ白になってしまう。そんな私の様子を横目でチラリと見て、日下くんがもう一度口を開いた。
「佐倉、前何かの授業でペアになったとき、泣いてただろ。よっぽど俺のこと、怖かったんだと思って。」
「あ…えぇ!?」
日下くん、覚えてたの!?というか、は、恥ずかしい…。今すぐ穴に埋まりたい…。
自業自得で日下くんにそう思われてしまったことに激しい後悔と羞恥心を覚えて、思わず頭をガクッと下げ、掘り返された花壇の土に目を移す。
そうだ。
2年前のあの日、私は泣き出してしまった。
窓際の、後ろから二番目の席。秋の終わりの午後の、あたたかな日差し。揺れるカーテン。教室に響く先生の声。私を見るみんなの視線。隣の席の、男の子。
一気にあの日の記憶がフラッシュバックする。涙でぼやけた視界に移る困り顔の日下くんに、「違うよ」も、「あなたのせいじゃないよ」も、何ひとつ伝えられなかったあの日の自分。
でも今は、違うよと、怖かったわけじゃないよと、ちゃんと伝えなきゃ…!
「日下くん、違うんだよ…!」
すくっとその場に立ち上がり、右手にスコップを持ったまま両手をぎゅっと握りしめてつばを飲み込んだ。
少し裏返った私の声に、日下くんが思わず手を止めて、こちらを向く。ドキッとして、私はまた言葉に詰まってしまう。
震わせたのどが、苦しくて熱くて、まるで自分のものじゃないみたいだった。
「あのねっ…あの時、私、嫌だったとか、怖かったんじゃなくてっ、そうじゃ、なくてっ…」
あれ?私、なんて言うつもりなんだろう…?
話しているうちにどんどんよくわからなくなり、真っ白な頭で、言葉だけが音になる。
日下くんはまっすぐな瞳で、じっと私の次の言葉を待っている。
顔が熱くて、心臓の音がうるさくて、どうにかなってしまいそうだ。
だめ、このままだと私、あの時みたいに…!
すんでのところで耐えきれなくなった私は、だいぶわざとらしかったけど、「そ、そういえば~」と話を変えることにした。頭の中の友ちゃんがずっこけていた。私は妄想の中の友ちゃんに「だ、だって~!!」と言い訳をして逃げるようにしゃがみこむと、スコップを握りなおしてひたすら土を固める作業に戻った。日下くんはというと、ますます頭にはてなマークを浮かべていたけど、それ以上は何も言ってこなかったし、その様子に私は心底安堵した。
まぁ、もうちょっと気にしてくれてもいいのになぁ、と思わなくもない、けど…。
「日下くん、さっきその、誰かとお話してたのかな?よく見えなかったけど…」
「さっき?」
「えっ?あの、さっき花壇の前で…」
「……。」
「く、日下くん?」
あ、あれ?なんか、勘違いかもしれないけど、表情が険しく…?
真剣なまなざしで花壇の土に視線を戻した日下くんは、何か考え込んでいるようだった。
ど、どうしよう。なんか悪いこと聞いちゃっ――
「見えるんだ」
「えっ?」
「妖怪」
「よ、ようかい…?」
きっぱりとした口調で告げられて、思考がついていかず、ついオウム返しになる。
え、なんだろう、妖怪…?日下くんが、冗談…?って、そんな感じじゃないし、でも――
「…なんてな、分かりづらくて悪い」
日下くんは「へたくそなんだ、冗談」と言いながら立ち上がると、着けていた軍手を外して背を向けた。
あんなに荒れていた花壇は、すっかり元通りになっていた。
「スコップとか、返しておく。先に帰る。」
簡潔にそれだけ言うと、日下くんは校舎の方にすたすたと歩きだしていく。
「く…日下くん!」
なんだかその背中が寂しそうで、私は焦って呼び止めた。
聞いたことがある。日下くんのご両親はお仕事でほとんど家にはいないって。
それが今関係あるのかないのかはよく分からなかったけど、何か話しかけなきゃいけない気がした。
「今日はありがとう…!ま、また明日!」
日下くんは一瞬だけこっちを振り向いてほんの少しだけ微笑んで、そのままテラスに置いていたランドセルを片手で持ち上げ去って行った。
私は、日下くんの姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。

…確か一度、噂になったことがある。日下くんは、お化けが見えるらしいって。誰もいない教室で誰かと話している声を聞いた人がいた、とか、何もない方向をにらみつけてることがある、とか…。
誰が流した噂なのかは分からないけど、日下くんもその噂を本当だとも嘘だとも言わないし、反応が返ってこなくてつまらないという理由ですぐ話題から消えていった。
…「妖怪が見える」日下くんは冗談だと言ったけど、本当に、そうなのかな…?もし、それが本当だとして、日下くんが庇いたかったお友達って…?そこまで考えて、でも、日下くんのお友達というのが人間でも人間じゃなかったとしても、日下くんが「庇いたい」と思ったその優しさは変わらないし本物だから、私は、それでいい。それに、見過ごすことだってできたはずなのに、花壇を元通りにするの、手伝ってくれた。私が頭が真っ白になってどもっちゃった時も、落ち着くまで、ちゃんと待っていてくれた。

遠くなっていく、夕焼けに照らされた背中を思い出す。
なぜだろう、あんなに大人びた彼なのに、最後に見せた微笑みは、ひどく幼く、寂しげに見えた。1人にしてはいけない人なのだと、そう思った。

ねぇ、友ちゃん、私、もう、誤魔化したり、気付かないフリしたりなんか、しないよ。
私、日下くんのことが…。

***

今、隣の彼を教科書に隠して横目で見る。
相変わらず涼しい顔で、黒板に書かれた文字を黙々とノートに写している。
握った手のひらの中には、友ちゃんがくれた、日下くんの隣の席の番号が書かれた紙。
小学生最後の春、神様が私にくれたチャンス。
日下くん、いつか貴方に、この想いが伝えられますように…。

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